Art and Face

アートの輝きを見つけるブログ

こんなに近くにあるのに芸術は届いてなかった


極論または短絡的、感情的と感じる方もいると思います
 
私は今回のエンブレム騒動を受けて、毎日落ち込むわけだが、そうやっていろいろ自分で考えている中で、思ったことは「世間がこんなに美術に関心がないなんて…」ということだ。
 
著名な人のこの件のブログを読んでいるとあきらかにデザインをやっている人とそれ以外で確執があるようなのだ。
 
私はエンブレム事件があるまで、このことが身に染みてわからなかった。
 
これだけ美術とそれ以外の人に確執があったら、画家や彫刻家など、アーティストの生活は苦しいはずだと思う。
 
 
芸術やデザインを自分の感覚で、根拠や核心を持って判断できる人は数限りなく少ないのだ。
だから世間は「説明」を求めるのだが、そもそもデザイナーなんて、世間で言うところの説明は、言われているほど得意じゃない。
 
「口で言えないので見てください」なのだ。
 
 
そして、デザイナーといえど、アーティストでもあるために繊細な人が多いのだ。今回のように「見たうえで批判されている」「目で分かるように過ちを突きつけられた」また「自分のアイディンティティをこめた作品を否定された」ら、もの作りをする人は基本自信なんてないので、もう生まれたばかりの子鹿より繊細な状態になる。
 
今世間は、生まれたばかりの子鹿を機関銃で撃って、「ほら子鹿なんだから立てよ」と言っているようなものなのだ。。
 
デザイナーの心は広く、平和的。
ある記事で、以前あった理科学研究所のトラブルと今回の件を比較し「今回の件は社会的判断ができる人間なのに我が身に甘く、自己愛が強い」といっていた。
しかし、デザイナーは海外でも仕事をすることが多いので、日本にある「誤解されたままだが、自分より大きなものに向けてとりあえず謝る」という美学は非常識なのだ。
自分も他人も大切にできる人だからデザイナーができる。
彼らは他の人が喜ぶことを考えているし、自分が嫌だと思ったことはしない。相手にも自分にも平和なのであり、「自己愛がつよい」のではない。
それが強みになってきたし、幸せのもとなのだ。
 
綺麗だったり素敵なものが好きだから、それを見つけたら大好きになるし、大好きなものであったら自然と手から出てくる。
自分のフィルターを一度通して、努力の積み重ねで再構築しているので、パクリだとは思わない。
誰かに「パクリ」と言われたら驚くし、すごく傷つく。
 
実際に「かっこいい!」「すごい」「キレイ」と引っかかったものが、各表現者のフィルターを何度も通ることで、美術は成長しているのだ。
 
「好き嫌い」の世界なのだ。ただそれは
 
「好き」→「取り入れる」→「好きを自分のフィルターを通して磨いて出す」

「嫌い」→見たくないから、意識から排除する。
 
である。しかしそれでふるいにかけられて確かに成長してきたと思える。
ちなみにフィルターを何度も、何度も通した人たちが行き着く感性というのがあり、それで「いい」「わるい」はある程度専門家の間で共通できる。
 
この「フィルターを通して美しくする」という仕組みは、程度によるが現在の社会的なモラルになかなか受け入れてもらえない。
なぜなら流通、伝達が成長した今、アイディアで生む利益は莫大だからだ。個人のアイディアは利益を生むから守る、とするなら当然これは著作権などで保護されるべき。
 
しかし「フィルターを通す」以外で美術は成長できない。
美術の成長だけを考えたら、むしろすごく邪魔だ。
そして「好き嫌いの」世界で生きている人は、なるべくもっと美しいものを生み出したいと思っている。
だからフィルターに遠慮なく通すが、それを他者から「パクリ」なんて言われたら「自分のフィルター通したよ!」で納得できないし、繊細なので傷つく。
 
あとなぜか著名人ブログなどで「私たち(一般人)には(美術は)分からないと馬鹿にしている!」という意見を、美術をやっていない人が言っているのを目にするのだが…。
 
それは違う。
デザイナーも芸術家も「分かって欲しい」と思っている。
デザイナーや芸術家などの、アーティストは繊細でめんどくさくて、自信がない。だから綺麗なものが生み出せ、かっこいいものが何か分かる。
そしてアーティストだって人であり、アーティストにしか分からないものなんてない。
 
ここで誤解が生まれるのは、美術家たちが繊細でこれまで自分たちの気持ちを言葉で伝えれなかったからだと思うのだが…。
かくいう私も自分の作品が批判されたり、見た人の反応が薄かったりしたら、一か月はフラッシュバックして、鬱状態になる。しかも褒められても「本当かな?」とか思うわけである…。
 
一方で美術やっていない人たちも、偉い人、著名な人が「良い」と言った作品をみて「感動」するよりも「不安」を感じていたようで、今回の事件でよりこれを感じて、私は衝撃を受けた。
 
そう思うと今までもそういうことはたくさんあって、例えば美術関係の勉強をしてない友人と個展や展覧会にいくと、私が「あれは素敵だけど、これはあまりタイプじゃない。きゃあ(/▽\)♪ぁこの表現かっこいい!やばい!たまらん」と言ってるのに対して、友人は「はぁ」と言う感じだったり「まずい私わからない?」と言う感じだったりする。
 
「私なんかにはわからないよ」「私なんかが感想いえない」とか言う感じだ。
 
ちょ、ちょっと待ってよ!
 
分かるよ。ただの人間の絵だよ!
それにだれのために芸術はあるの?芸術はあなたに問いかけて、あなたを磨くためにあるんだよ?画家のためにあるんじゃないよ!
誰が描いた作品もあなたのために存在してるんだから、まずは自分の心のフィルターを通して、ほかとの違いを比べて、磨いでいきなよ。利用しなよ。
 
それが積み重なったらあるときいきなり「あれ世界ってこんなに綺麗だったか?人ってこんなに深くて魅力があったか?」と気づいて、そうしたら貴方は自分だけの評価を持つんだよ。
 
ということなんだが…。
 
たぶん「わからない」
ということが、確執を生んでいるのだ。
アーティストにしたら、自分が裸になって表してるものを否定されたらこわい。
たがら「どうせ、わからないでしょ」と防衛戦をはっている。
アーティストはただたんに自信がないのだ。自分の作品に自信がなくて「私にも私の作品がわからない」状態なのだ。
(だから、こなれて来ると理詰めが上手くなる。「私にも私の作品がわからない」は本人も辛い。だからこの線は○○な意味で引きました。とか言えるようになったり、言える絵を描こうとするが本当のところは100%そうでもない)
 
また見る方も
「なんだろこれ?わからないけど、わからないといけない気がする。この画家さんに悪い気がする…無表情だし…(ただたんに自分の作品に自信がないから、小難しい顔をしているだけだが…)」
「わからない」のだ。
しかし、分からなかったら聞けばいいのだ。
「これはどんなところが素敵なんですか?」と。
 
アーティストはここでメンタルをやられてはいけない。
 
作品を作った高揚感を持って、「これはですね!ここがこんなふうに素敵なんですよ!」と自画自賛をして始めて、意思疎通が生まれる。
見る人も、描く人も自信が生まれて美術が楽しくなるのだ。
 
だから欧米ではアートは発展しているじゃないか!
 
あいつらは多分自画自賛しているはずだ。
私も今まで、傷つきたくなくて、自分の作品をよく思わない人がいたらあまり関わりたくなかった。
でも、
「ちょっと待ってください!これはここの筆の入れ方が美しく、芸術的で楽しいんです。ほらしっかり見てください。まるで古代ローマを旅したみたいな気持ちになってきたでしょ?それがわかったら貴方は私とこころの友です」
 
と言わなきゃいけなかったんだと思う。
 
もうデザイナーやら美術家は自画自賛をしよう。
じゃないと相手も安心できない。
 
エンブレムの件も、もうネットで何を言われてもいいから、自信を持って自画自賛をして欲しいのだ。
「似ている作品がある?知ったことか!ちゃんと自分のフィルター通しているよ!ほら、ここの部分みてよ!これ描いたときさあ〜ふわっと夕日が目の前に浮かんできてさ〜それで黒とかでまとめてさ、そうしたらかっこいいじゃん」である。
 
審査員も「なんで何度もやり直させたかだって?基本はいい感じだったけど、今までの俺の経験をアドバイスしてさらに良くしてやっただけだよ。
じゃあなんで自分で作らないのかだって? これは五輪のデザインだぞ、国家をかけたデザインは、いろんな目と手が入った方がいいにきまっているだろ!デザインというのはな、自分以外の“もの”が発する魅力をいろんな人のフィルターを通せばさらに良くなるものなんだ!だから原案があって、実力のある審査員のフィルターもいれて、しかし基本は提出者の感性で直してもらったというだけだ。これは“美”を究める基本の技術だ!
なら他の作品も加筆すれば良くなるだって?他の作品より、加筆修正してグレード上げたい作品だったから選んだんだ!」
 
極論と感じる人もいるかもだが私の感覚で言えば、こう納得できる。
きっと自分では気づけないけれど、絵画の人よりの意見でしょうね。
 デザイナーが見たら「ちがう」となるかも。