Art and Face

アートの輝きを見つけるブログ

私はいま悲しい。

私はいまとても悲しい。

こんなに悲しく落ち込むことはなかなかない。

 

最近はネットニュースを半日ごとにチェックしている、限界はあるがいろいろな人の記事を読む。

アートを愛するものとして、こんなに悲しかったことはない。

 

もちろんこれはオリンピックエンブレムの件で落ち込んでいるのである。

言葉でなぜ落ち込んでいるのかを話すのはとても難しい。

しかし、やっぱり示しておきたい。

 

「いじめ」という言葉がある。

これは一人の人間を大多数の人がよってたかって否定することだと私は思っている。

一つの満盈している考え方で「いじめはいじめられる方も悪い」ということを言われることがある。

いじめられる人がいじめられる前に、他の人から見て「おかしい」「間違っている」といわれることをして、大多数の賛同が得られた場合「いじめられる方も悪い」という言葉が生まれる。

しかしこれは明らかに一方的な考え方だと思う。

「おかしい」「間違っている」は普遍的に変化する。

例えば、ある人には簡単にできることでも、ある人は簡単にできないことがある。

何か「おかしい」と思ったら、「ではなぜこの人はおかしいことをしたのだろう?」と相手のことを考え、一緒に解決することが大切である。

よってたかって、多数でいじめをはじめていい理由にはならない。

 

エンブレムの件もそうだ。

個人的には、あのエンブレムはパクリではないと思う。

「パクられたかもしれない」と言われている劇場ロゴは黒のなかにエッジの効いた形でTを表すことで、シンプルでシックな印象を表現している。

もしパクるとしたら、「黒のなかにエッジの効いた形でシンプルに魅せる」という部分をパクる。

 

しかし東京五輪のエンブレムは「シンプルな形がバランスよく配置されつつ、黒や赤、金、銀のポップな色合いを最小現につかい魅せる」という表現をしていると思う。

 

そもそもの生み出される、手順が違う作品だと思う。

 

 

そのほかの仕事では、間違いがあって、それは当事者間で話し合われる事例だと思う上に、業界全体で改善しなくてはいけないと思うが

「過失がある人間」は「罪もおかしている」というのは納得ができない。

 

今、責任を求められているデザイナーに私はこれ以上の説明責任はないと思う。

 

もしほんの少し自分の言葉を話しただけで、数千人の人の批判の目が向けられると感じ、そのなかには「そうかもしれない」と思える意見もあるが、明らかな悪意のある言葉も含まれていたら、限界状態でそれを受け止めることなどできない。

「少しでも動いたら殺される」そんな状態で「仕事だ、責任があるから動け」といっているようなものである。

 

むしろ私は

責任があり、希望があり、誇りがある人が、そのすべてができない、捨てなければいけない状況にまで追い込まれてしまったことが悲しい。

 

「あの作品に似ているものがある」「似ている作品の人が訴訟するといっている」という話が出たときに

「私たち日本のオリンピックで選ばれたデザイナーは人の作品のまねをする行為はしていません」とどうして言えないのだろう。

「日本の恥」だというなら、私はこの部分が恥だと思う。

自分たちの身内を愛せない、信じられない、こんなに悲しいことがあるだろうか。

そう言う声が上がっていいほどに、彼はこれまで日本人のお茶の間を楽しませるデザインをしてきていると思う。

 

どれだけの日本人が彼の作品を見て、彼の作品だと知らずに「かわいいな」「おもしろいな」「楽しいな」と思ってきただろう。

喜びはアイディンティティを築いてくれる。

何気ない日常の誰かの創作一つ一つが私たち一人ひとりのアイディンティティを築き、文化を育んでいる。

 

その文化を信じるどころか疑っていいのだろうか。

 

行ったこともない劇場の、知らない人の声に私たち日本人が、愛すべき人の声よりさきに耳を傾けてよかったのだろうか。

 

「まねされたかもしれない」人が怒るのは当然だ。

「まねかもしれない」と運営する側が調査をするのも当然だ。

 

でも「誤解です」「誤解だと願っている」という国民の声があまりに少なくないだろうか。

 

 

この後、この問題はどう転ぶのだろう。

願わくば、まったくこの事体を無視した作品が登用されるのではなく、この事件を包み込んだ作品が東京オリンピックの象徴となってほしい。

 

自分たちを見つめ直す最高の機会だと受け止めて、オリンピックとデザインがこの事件をもとにさらに輝いて欲しいと思う。